年を重ね、何より日々瞑想することで心が丸くなったはずのようへいです。
そう、そのはずだったんです!私の心はコスタリカのディキス地方で1930年に発見された紀元前200年頃に作られたと言われている石のオーパーツ「コスタリカの真球群」の中の一つではないかと思えるほど丸くなったはずなのです。
瞑想会でも皆様に「瞑想を日々実践することで、他者に情愛を持って接する事が出来るようになります。それが例え自分に対してネガティブなアプローチをする人間に対してもです」なんてことをのたまっておりましたが、(誰かそのことを話したあの日の私の舌を切り取って、焼肉にしてレモンを搾って食べてください)お恥ずかしいことに久しぶりに人前で怒りをあらわにしてしまいました。
私は生まれ変わったら、あの人前では決してネガティブな感情を表に出さないAD、FUCK Tシャツ○○くんになりたい。
とは言っても、やはり瞑想することで以前と違うのは、なぜあの瞬間感情を制御できなかったのか?何に対して怒りを覚えたのか、客観的に内省し、深く、それはもう水圧で心が潰れそうになるほど深く反省できているという事。他者に対しての怒りは多くの場合エゴなのでしょう。第三者が見て例えそれがいたしかたのないリアクションであったと共感いただけても、怒りは人を過去にとどめ、後悔や非生産的なフィールドに縛り付けてしまいます。
もうこの時点でその怒りのきっかけとなった他者は関係なく、全ての心の重苦しさの責任は自分にあるのです。ただ、となると心の操縦桿はしっかと自分が握りしめているので、やはり私たちの人生は他者に生殺与奪の権はなく、不可侵の自分が望むままの人生を送れるということなのでしょう。
う~ん!あの日のあの方、勉強させて頂いてありがとうございました。
8月10日の瞑想会で何があったのかチラッとお話させて頂いて、そこから感謝の瞑想のメソッドに入ろうと思っております。
何にしましても、人生道半ば、いまだ玉ねぎ剣士のようへいです。ですから私は日々瞑想を実践しながら熟成庫にこもり、人間の熟成に努め、美味しいお肉を目指しているのです。
とは言っても最近は、未熟ながらもインスピレーションや様々な気づき、また、タイミングの良さも噛み合って充実した日々を送れている実感はあります。以前と起きていることは、そう変わらないのかもしれませんが、些細な人生の祝福に気付けるようになったことで、今のこの瞬間の幸福に感謝し、それが感謝の追加オーダーとなり「次の幸せヘイ!お待ち!」と大将(宇宙)の気分が良くなって様々なタイミングが噛み合ってきているのかもしれません。
物欲、性欲、睡眠欲、食欲を満たしたことで得られる快感とは比にならない、突然押し寄せる理由の定かでない感謝の念の快感、この快感も瞑想を続けられている理由の一つだと思います。
明日は長野に続き、インスピレーションを頼りに廻った愛知県のパワースポット巡りについてお話させてくださ~い!
まあまあ・・・